ヴァイオリニスト 久保陽子物語 #7

母と別れて初めての生活

中学生の頃、奄美に一人で暮らしていたお父様の具合が悪くなり、お母様が一度奄美に帰ることになりました。
その間、久保さんを預かっていただく先として候補に上がったのが...

久保さん:「アンナ先生の養子になるか、斉藤先生の奥様にお願いするかってことになったのね。でも、そんなことしたら久保陽子がなくなる!って大声で叫んだわ。要するに、いやだったのよ」

結局、同じカトリックで吉祥寺の教会に一緒に通ったりしていたご縁もあって、鷲尾(現在:岩谷)悠子さんのお宅にお世話になることになりました。悠子さんのお母様という方が、また大変なお料理上手で、美味しいものをいつもたくさん用意してくださるので、食べ過ぎてとても太ってしまったそうです。

久保さん:「その頃の写真ね、こんなになっちゃってて(笑)」

優子さんのお母様はお料理はもちろん、花を植えたりするのも好きな大変面倒見の良い方だったそうで、久保さんは一年半ほど、ここでのびのびと生活することができたのです。

お父様の病気のため奄美に帰っていたお母様が久しぶりに東京にいらしたある日、ほっとしたのか、風邪を引いて急に高熱を出してしまった久保さん。めずらしく「帰らないでほしい」とお母様に言ったそうです。

久保さん:「よくわからないんだけど...熱が出てたから、心細くなったのかもしれないわね」

お母様も「じゃあ、お父さんも元気になったら一緒に住める家を探しましょう」とお決めになり、カリタス修道会のことをよくご存知だった神父様に相談したところ、「ここにいたらどうでしょうか。ただ、女子寮ですから、親子で住めるかどうか...ちょっと考えましょう」と言ってくださったのです。そして「倉庫になってた建物が寮の外にあるので、よかったらこれを改装してここに住むのはどうでしょう?」ということでそちらお世話になることになったのです。
当時そこは大学の女子寮で100人以上の学生さんが暮らしていました。
以後、久保さんは世田谷、若林にあった女子寮の離れから、世田谷線で音楽教室や中学校、高校へ通うようになるのです。

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