ヴァイオリニスト 久保陽子物語 #6

音楽教室クラス退学!? 素晴らしき先生方

その教室の五年生のクラス分け試験の時、クラス別に結果が張り出されるのですが、見に行くと今までいたクラスに名前がない!一番下のクラスにもない!もう辞めるしかない...とすごすご帰ろうとしたら、ピアノの井口基成先生の息子さん(当時の同級生)が、「名前、一番上のクラスにあるよ!」と教えてくれました。

久保さん:「そんなわけないじゃないって。落ちたと思ったら本当に一番最初に名前が乗ってたの!」

その話を聞いたお母様、何かの間違いではと教務室に問い合わせました。すると「あなたの娘さんは困難な場所においておくとそこまで追いつこうとする能力があるので、一番上においてみました」とのこと。

久保さん:「そこでとても厳しくやらされてね(笑)それがあったからよかったんだと思うわ」

お教室ではクリスマスに皆勤賞をいただきました。
当時出たばかりだったプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番のスコアでした。
まだ小学生の子供たちのために、外国からわざわざ取り寄せてのプレゼントでした。

久保さん:「当時最新の情報よ。それを年端もいかない子供にプレゼントする、その心意気がすごいじゃない。もちろん、今だに取ってあるわ」

そしてこの音楽教室、なんといっても先生方が素晴らしかった! 主宰の齋藤秀雄氏をはじめ、声楽の伊藤武雄氏、作曲の入野義朗氏など当時の超一流、クラッシック音楽会のトップ達で先生たちが構成されていました。
先生方の中には、黒柳守綱氏(黒柳徹子さんのお父様)もいらっしゃいました。
他の人が「この子、奄美から来たんだって」と言ったりすると「この子はものすごく弾ける子だ」「弾ければいいんだ」と言ってくださったそうです。当時の奄美大島は「かつての薩摩藩の島流し先」というイメージから、あまりいい印象を持たれていませんでした。お母様はことあるごとにそういってくださる黒柳氏に大変感謝されていたそうです。
出身地などの先入観を持たず、純粋に音楽だけをみてくれたその超一流の先生方だった
からこそ、才能の芽をきちんとつかまえて伸ばしてくれた。もしも別な学校に行っていたら、そもそも試験で受かっていなかったし、今ここに私は居ない...久保さんは当時をこう振り返ります。

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